ツイッターで通りすがりに知った人の死を知った。
平たく言えば、捜索願のRTを見かけてRTしたのち、残念な結果になってしまったということを知った。
私の知らない人だった。
ネットで一瞬袖を掠めた、ほんのわずか目に留まった存在に、何を思って良いのかわからない。
ましていなくなった後に本人の残した言葉や、作品や、日々を知って。
途切れて何も語らず残されたままの本人のツイッター
きっとそういうものは、たくさん埋もれているのだろう。ツイッターの、インターネットのどこかに。




ブログやインターネットの中の他のものよりも、ツイッターはそういうものに触れる機会が多いと思う。
RTがどんどん媒介して、知らない人にたどり着く機会の多さはたぶん今までの比じゃない。
手が届く範囲のオフラインの世界の絶対的な狭さと、ネットを巡るオンラインの網の相対的な狭さ。
時々距離感やバランスがわからなくなってくる。
何かを見失うような感覚になったり、知らない誰かの言葉に心を乱されたり。
遠いはずの人を近いように錯覚したり、自分の身の丈がわからなくなったり。


それでも半径の狭い世界で暮らしている、コミュニケーションが苦手な私は、
オンラインを通して誰かと繋がれていることに細々と感謝をしているけれど。
実際に会って、声を交わせた人もいるけれど。
そうでない限りはオンラインに居るゆうれいみたいなものだなって思う。
実体のない文字だけの存在。実体が消えてしまってもそこに残り続けるであろう痕跡だけのもの。


それでいい、それがいいと思っていた時期が、私にもありました。
別に、ネットとオフでキャラを意識的に変えてるつもりもないけれど(けど、文章の書き方の印象と実際会ったときの印象は違うかもしれない)、
実体がないほうが、背景もキャラも構わずに言葉がまっすぐ伝わると思っていたから。
だけど自分が見る言葉の背景は知りたいと思う。
その人のことを理解したいと思う。過ぎた好奇心にならない範囲で。



RTしたその人について、もう少し知りたいと思った。
だけど、言葉をなぞっても日常を垣間見ても、やっぱり知らない人で。
やっぱり実感が無くて。
狭いオンラインの網の上でたまたま触れられたとしても、遠い人はやはり、遠いのかな、とぼんやり思った。


単に、私に想像力が足りないだけかもしれないが。


何が言いたいのかよくわかんなくなった。
ひとりごとというか。ぼやきというか。


見ず知らずの私が言うのもどうなのかとも思うけれど
ご冥福を、お祈りします。